自分の感性を大事にする話
個性、感性、長所を伸ばそう
キ~ン コ~ン カ~ン コ~ン………
放課後の校庭で、子供たちが元気に遊んでいる。
小学生、特に低学年の子供には、個性的な子供が多い。
近頃の学校では、「個性の伸長」ということが言われているようだ。
世の中には、「個性的な人」が必要ということだ。つまり、「多様な人間」が必要ということだ。
人によっては、「私は普通でいい」という「控えめな人」がいるが、オイラは「普通は嫌」だ。
他の人が「普通」であることは、別にいいのだが、自分は嫌なのだ。
別に「奇抜さ」を求めているわけではないが、いちいち「普通」を意識し、それに合わせるのは、息苦しい。もっと、自然体でいたいのだ。
オイラの考えはともかく、今の世の中には、「個性的な人」が必要なのだ。
だから、学校で「個性の伸長」と言っているのだ。
この「個性」を伸ばすためには、「感性」を意識する必要がある。
「観念的」にならず、自分の「感性」に従って様々な選択をし、行動していれば、その人は「個性的な人」になる。
だが、ほとんどの人は、成長するに従って、周りの目を気にするようになり、「観念的」になり「感性」に従わなくなる。
そして、「個性」のない「普通の人」になる。
男女によって違いがあるし、個人差もあるが、男の子は、大体、小学校3年生ころまでは、「感性」に従って行動しているように思う。
そして、4年生ころから、周りの目を気にするようになるように思う。
オイラはそうだった。
小学校3年のとき、図工の授業で、紙粘土で「お面」をつくった。
「お面」でも「かぶと(かぶり物)」でもよかったのだが、オイラは、「クモのかぶと」をつくった。
何で「クモ」なのか?
それは分からない。
オイラの「感性」が、そうさせたのだ。
この作品を見た、親の知り合い(別の学校で図工の先生をやっている)は、「これはいいね~」と気に入ってくれた。
しょせん子供がつくったものだから、技術的には、どうということはないのだが、その「奇抜さ」や「大胆さ」に、面白みを感じていたようだ。
今考えると、オイラもそう思う。
だが、小学校4年くらいから、オイラは、周りの目を気にするようになった。
「自分の感性に従う」よりも、「普通に合わせること」を意識するようになったのだ。
小学校5年のとき、図工の授業で、木で「ハンガー(のようなもの)」をつくった。
もちろん、どんな絵を描いてもいいし、どんなデザインでもいいのだが、オイラは、無難なものをつくった。
それは、今のオイラからすると、面白いものではない。
オイラは、周りの目を気にするようになって、「感性」に従うのではなく、「観念的」になり、「普通」に合わせるようになったのだ。
中学校一年のとき、友達からCDを借りた。
それは、CMソングのコンピレーションアルバムだったのだが、その中に、「すごくいい」と思う曲があった。
デイブ・ブルーベックの「テイクファイブ(ジャズ)」だ。
そのCDの、その他の曲はポップスだ。
ポップスを聴くつもりで借りたCDに「テイクファイブ(ジャズ)」が入っていたのだ。
そして、その曲を「すごくいい」と思ったのだ。
だが、そのころのオイラは、周りの目を気にするようになっていたから、
「こんな曲を聴くのはダサイのではないか?」
「この曲を聴いていることを、みんなが知ったらどうしよう?」
などと考えた。
そして、結局、そのCDの何曲かは、カセットテープにダビング(コピー)したが、「テイクファイブ」はダビングしなかった。
中学校3年くらいから、再び、オイラは周りの目を気にしなくなっていった。
周りの目を気にしなくなるにつれて、再び「感性」に従うようになっていった。
そして、「感性」に従うようになるにつれて、頭の片隅に「テイクファイブ」が「ちらつく」ようになった。
「あの曲、いいと思ったんだけどなぁ~」「なんてタイトルだっけな~」「ダビング(コピー)しておけばよかったな~」「もったいないことしたな~」
たまに、そう思うときがあったのだ。
23歳のとき、旅行でオーストラリアへ行った。
辞書を買うために、日本語の本を販売している本屋へ行った。
「辞書はどこ~。辞書はどこ~」と探していると、
「んっ!!」
「おっ!?」
「おおおおおおーっ!?」
「あの曲じゃーーん!?(驚き&超感動!!)」
そう。たまたま、店のスピーカーから「テイクファイブ」が流れていたのだ。
「おおおおお~。どうしよう!?」
一瞬考えたオイラは、「とりあえず店員(日本人)に聞こう」と思った。
「店員が知っているわけがない」と思ったが、このタイミングを逃したら、次はいつ、この曲に出会えるか分からない。
そう思って、とりあえず聞いてみた。
すると、以外にも、その店員は知っていた。
店でかけていたのは、ラジオではなくCDだったのだ。
店員は、一端局を止めて曲名を確認し、「デイブ・ブルーベックのテイクファイブです」と教えてくれたのだ。
「うおおおおおおおお~!?」
オイラは、とりあえず店を出た。
そして、CDショップを探した。
そして、「テイクファイブ」を探し、それを買った。
自分で封印した「感性」を、取り戻した瞬間だった。
これに似た経験がある人は、いるのではないか?
「観念的」になり、自分の「感性」を封印してしまった経験がある人、また、自分の「感性」を取り戻した経験がある人は、いるのではないか?
だが、多くの人は、周りの目を気にし、「観念的」になり、自分の「感性」を押さえ、「普通」に合わせたままのように思える。
オイラに言わせれば、それは「非常に、もったいないこと」だ。
そんな人生、つまらないじゃないか。
自分の「感性」を完全に押さえ込んだら、それは、「自分であって、自分ではない」のだ。
特に、今では、学校で「個性の伸長」と言っているくらいなのだ。
みんな!!
自分の「感性」に従ってしまおう!!
自分の「個性」を伸ばしてしまおう!!
本当の自分になってしまおう!!
自分を創るのは、自分なのだ!!
※デイブ・ブルーベックのテイクファイブとは、この曲だ!!
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放課後の校庭で、子供たちが元気に遊んでいる。
小学生、特に低学年の子供には、個性的な子供が多い。
近頃の学校では、「個性の伸長」ということが言われているようだ。
世の中には、「個性的な人」が必要ということだ。つまり、「多様な人間」が必要ということだ。
人によっては、「私は普通でいい」という「控えめな人」がいるが、オイラは「普通は嫌」だ。
他の人が「普通」であることは、別にいいのだが、自分は嫌なのだ。
別に「奇抜さ」を求めているわけではないが、いちいち「普通」を意識し、それに合わせるのは、息苦しい。もっと、自然体でいたいのだ。
オイラの考えはともかく、今の世の中には、「個性的な人」が必要なのだ。
だから、学校で「個性の伸長」と言っているのだ。
この「個性」を伸ばすためには、「感性」を意識する必要がある。
「観念的」にならず、自分の「感性」に従って様々な選択をし、行動していれば、その人は「個性的な人」になる。
だが、ほとんどの人は、成長するに従って、周りの目を気にするようになり、「観念的」になり「感性」に従わなくなる。
そして、「個性」のない「普通の人」になる。
男女によって違いがあるし、個人差もあるが、男の子は、大体、小学校3年生ころまでは、「感性」に従って行動しているように思う。
そして、4年生ころから、周りの目を気にするようになるように思う。
オイラはそうだった。
小学校3年のとき、図工の授業で、紙粘土で「お面」をつくった。
「お面」でも「かぶと(かぶり物)」でもよかったのだが、オイラは、「クモのかぶと」をつくった。
何で「クモ」なのか?
それは分からない。
オイラの「感性」が、そうさせたのだ。
この作品を見た、親の知り合い(別の学校で図工の先生をやっている)は、「これはいいね~」と気に入ってくれた。
しょせん子供がつくったものだから、技術的には、どうということはないのだが、その「奇抜さ」や「大胆さ」に、面白みを感じていたようだ。
今考えると、オイラもそう思う。
だが、小学校4年くらいから、オイラは、周りの目を気にするようになった。
「自分の感性に従う」よりも、「普通に合わせること」を意識するようになったのだ。
小学校5年のとき、図工の授業で、木で「ハンガー(のようなもの)」をつくった。
もちろん、どんな絵を描いてもいいし、どんなデザインでもいいのだが、オイラは、無難なものをつくった。
それは、今のオイラからすると、面白いものではない。
オイラは、周りの目を気にするようになって、「感性」に従うのではなく、「観念的」になり、「普通」に合わせるようになったのだ。
中学校一年のとき、友達からCDを借りた。
それは、CMソングのコンピレーションアルバムだったのだが、その中に、「すごくいい」と思う曲があった。
デイブ・ブルーベックの「テイクファイブ(ジャズ)」だ。
そのCDの、その他の曲はポップスだ。
ポップスを聴くつもりで借りたCDに「テイクファイブ(ジャズ)」が入っていたのだ。
そして、その曲を「すごくいい」と思ったのだ。
だが、そのころのオイラは、周りの目を気にするようになっていたから、
「こんな曲を聴くのはダサイのではないか?」
「この曲を聴いていることを、みんなが知ったらどうしよう?」
などと考えた。
そして、結局、そのCDの何曲かは、カセットテープにダビング(コピー)したが、「テイクファイブ」はダビングしなかった。
中学校3年くらいから、再び、オイラは周りの目を気にしなくなっていった。
周りの目を気にしなくなるにつれて、再び「感性」に従うようになっていった。
そして、「感性」に従うようになるにつれて、頭の片隅に「テイクファイブ」が「ちらつく」ようになった。
「あの曲、いいと思ったんだけどなぁ~」「なんてタイトルだっけな~」「ダビング(コピー)しておけばよかったな~」「もったいないことしたな~」
たまに、そう思うときがあったのだ。
23歳のとき、旅行でオーストラリアへ行った。
辞書を買うために、日本語の本を販売している本屋へ行った。
「辞書はどこ~。辞書はどこ~」と探していると、
「んっ!!」
「おっ!?」
「おおおおおおーっ!?」
「あの曲じゃーーん!?(驚き&超感動!!)」
そう。たまたま、店のスピーカーから「テイクファイブ」が流れていたのだ。
「おおおおお~。どうしよう!?」
一瞬考えたオイラは、「とりあえず店員(日本人)に聞こう」と思った。
「店員が知っているわけがない」と思ったが、このタイミングを逃したら、次はいつ、この曲に出会えるか分からない。
そう思って、とりあえず聞いてみた。
すると、以外にも、その店員は知っていた。
店でかけていたのは、ラジオではなくCDだったのだ。
店員は、一端局を止めて曲名を確認し、「デイブ・ブルーベックのテイクファイブです」と教えてくれたのだ。
「うおおおおおおおお~!?」
オイラは、とりあえず店を出た。
そして、CDショップを探した。
そして、「テイクファイブ」を探し、それを買った。
自分で封印した「感性」を、取り戻した瞬間だった。
これに似た経験がある人は、いるのではないか?
「観念的」になり、自分の「感性」を封印してしまった経験がある人、また、自分の「感性」を取り戻した経験がある人は、いるのではないか?
だが、多くの人は、周りの目を気にし、「観念的」になり、自分の「感性」を押さえ、「普通」に合わせたままのように思える。
オイラに言わせれば、それは「非常に、もったいないこと」だ。
そんな人生、つまらないじゃないか。
自分の「感性」を完全に押さえ込んだら、それは、「自分であって、自分ではない」のだ。
特に、今では、学校で「個性の伸長」と言っているくらいなのだ。
みんな!!
自分の「感性」に従ってしまおう!!
自分の「個性」を伸ばしてしまおう!!
本当の自分になってしまおう!!
自分を創るのは、自分なのだ!!
※デイブ・ブルーベックのテイクファイブとは、この曲だ!!

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