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論理的思考能力を持とう

幸福になるための知恵
04 /21 2019
 ※ここで言う「論理的思考能力」とは、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考を進める能力」という意味です。


 論理的思考能力は、計画立案や問題解決をするために必要な能力です。

「嘘」と「本当」を見分けるためにも必要です。

 フェイクニュースや間違った情報に振り回されず、真実を見抜くためにも必要です。

 つまり、論理的思考能力は、生きていく上で、必要不可欠な能力だと言えます。

 ですが、世の中には、論理的に考えない人がたくさんいます。


 1+1(いち たす いち)は、何でしょう?

 そうです。2です。


 では、もし、世界の全ての人が、「1+1=3だ!!」と言ったら、答えは3でしょうか? 2でしょうか?

 アメリカの大統領も、日本の総理大臣も、中国の国家主席も、ロシアの大統領も、世界の全てのマスコミも、世界の全ての学者も、みんながみんな「1+1=3だ!!」と言ったら、その答えは3でしょうか?

 どう思いますか?




 誰が何と言おうと、1+1の答えは2です。

 袋の中にリンゴが1つあります。

 その袋に、もう1つリンゴを加えます。

 袋の中に、リンゴは全部で何個あるでしょう?


 そうです。答えは2個です。これが、1+1=2ということなのです。

 ですから、誰が何と言おうと1+1=2なのです。

 論理的に言って、1+1=2なのです。

 みんなが言っているかどうかは関係ありません。

 論理的に正しいかどうか(物事と物事が正しく関係付けられているかどうか)が問題なのです。


 この論理的思考能力を説明するために、大和思想の五章から、「『論理的思考能力』を持っている」を抜粋したいと思います。


~~~~~~~~~ 大和思想 五章から抜粋 ~~~~~~~~~~


 「論理的思考能力」を持っている

 ※ここで言う「論理」とは、「物事」と「物事」の間にある「法則的なつながり、関係」という意味です。
 また、「論理的に思考する」とは、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考を進める」という意味です。
 また、「論理的思考能力」とは、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考を進める能力」という意味です。

 また、ここで言う「思考する(考える)」とは、「『目的』を持って考えること」です。
「『目的を実現させる方法』を考える」「『問題を解決する方法』を考える」「『失敗の原因』
を考える」「『より良く行なう方法』を考える」というように、「目的」を持って行なうのが「思考する(考える)」です。

 一方、「目的」を持たずに行なうのは、「思う(思っている状態)」です。
 それは、「見たこと」「聞いたこと」「経験したこと」等に反応して「思っている」のであって、「思考している(考えている)」わけではありません。



「大和思想を実践している人」は、「論理的思考能力」を持っています。


「大和思想を実践している人」は、常に、自ら率先して、普段自分が関わっている「全体」をまとめていますが、実際に「全体をまとめる」ためには、様々なことを「考える(思考する)」必要があります。

 この「考える(思考する)」とは、「『正しい答えを導き出す』ために行なう行為」です。

「『目的を実現させる方法』を考える」「『問題を解決する方法』を考える」「『失敗の原因』
を考える」「『より良く行なう方法』を考える」、その他、どのようなことを「考える」場合でも、「『正しい答え』を導き出すため」に「考える」のであって、「『間違った答え』を導き出すため」に「考える」わけではありません。

 ですから、「考える(思考する)」ときには、必ず、「正しい答えを導き出すこと」ができる方法で思考を進める必要があります。つまり、「論理的に思考する」必要があります。


「論理的に思考する」とは、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考を進める」ということです。

 つまり、「こうすれば、こうなる」「こうなることによって、そうなる」、そして「そうなることによって、目的が実現される」と考えるときに、「それぞれを『正しく関係付けて』思考を進める」ということです。

「こうすれば、こうなる」「こうなることによって、そうなる」、そして「そうなることによって、目的が実現される」と考えたとしても、それぞれが「正しく」関係付けられていなければ、そのとおりに作業を進めても「目的」は実現しません。

 これは、「1+2+3+4+5」を計算するときに、「1+2」「その答え+3」「その答え+4」「その答え+5」の、それぞれの計算が正しく行なわれなければ、最後の答えが正しくならないのと同じで、「思考する」ときも、それぞれを「正しく関係付けて」思考しなければ、最終的な答えは正しくならないのです。

 ですから、「考える(思考する)」ときには、必ず、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考する」必要があるのです。つまり、「論理的に思考する」必要があるのです。


 さて、どのようなことを「考える(思考する)」場合でも、必ず「論理的に思考する」必要があるので、「論理的思考能力」は、全ての人にとって必要不可欠なのですが、世の中には、「論理的に思考する」のが苦手な人がいます。

「『論理的に思考すること』ができない」ということは、「『物事と物事を正しく関係付けて思考すること』ができない」ということですが、それができない「原因」は、いくつかあります。


「論理的に思考すること」ができない「原因」の一つは、そういう人は、「世の中の全ての『物事』に、それぞれの『法則(論理)』が備わっていること」「世の中の全ての『物事』が、それぞれの『法則(論理)』の上に成り立っていること」を理解していないからです。


 世の中の全ての「物事」には、それぞれの「法則(論理)」が備わっています。
 別の言い方をすると、世の中の全ての「物事」は、それぞれの「法則(論理)」の上に成り立っています。

 ですから、何らかの「目的」を実現させるためには、それに備わっている「法則(論理)」に則って行なう必要がありますし、常に、その「法則(論理)」に則って行なえば、常に、同じ結果を得ることができます。

 例えば、「ボールを遠くに投げる」ためには、単に「力一杯投げる」のではなく、その「動作」に備わっている「法則(論理)」を理解し、それに則って投げる必要があります。
「『ボールを遠くに投げる』メカニズム(法則、論理)」を理解し、それに則った「ボールの握り方」「脚の動かし方」「重心の移動の仕方」「腕の振り方」等をするからこそ、「ボールを遠くに投げること」ができるのです。
 また、常に、その「メカニズム(法則、論理)」に則ってボールを投げれば、常に、「遠くに投げること」ができるのです。

 また、「『植物』を理想の状態に育てる」ためには、「その『植物』の成長のメカニズム(法則、論理)」を理解し、それに則って育てる必要があります。
「その『植物』の成長のメカニズム(法則、論理)」を理解し、それに則った「種の播き方」「水のやり方」「肥料のやり方」「手入れの仕方」等をするからこそ、「その『植物』を理想の状態に育てること」ができるのです。
 また、常に、その「メカニズム(法則、論理)」に則って育てれば、常に、「理想の状態に育てること」ができるのです。

 また、「上手な文章を書く」ため、「上手な説明をする」ためには、「言語の法則(論理)」を理解し、それに則って行なう必要があります。
「言語の法則(論理)」を理解し、それに則り、「正しい単語」「正しい文法」を使って行なうからこそ、「上手な文章を書くこと」「上手な説明をすること」ができるのです。
 また、常に、「言語の法則」に則って行なえば、常に、「上手な文章を書くこと」「上手な説明をすること」ができるのです。


 このように、どのような「目的」でも、それを実現させるためには、それに備わっている「法則(論理)」に則って行なう必要がありますし、常に、その「法則(論理)」に則って行なえば、常に、同じ結果を得ることができるのですが、これは、「世の中の全ての『物事』に、それぞれの『法則(論理)』が備わっているから」「世の中の全ての『物事』が、それぞれの『法則(論理)』の上に成り立っているから」起こることです。

 もし、それぞれの「物事」に、それぞれの「法則(論理)」が備わっていなかったら、同じ「やり方」で行なっても、毎回違う結果になりますし、「やり方」や「コツ」を人に教えることも、人から学ぶこともできません。

 というより、「物事」に、それぞれの「法則(論理)」が備わっていなかったら、「やり方」や「コツ」自体がないはずなのです。

「『目的』を実現させるためには、それに備わっている『法則(論理)』に則って行なう必要がある」「常に、その『法則(論理)』に則って行なえば、常に、同じ結果を得ることができる」ということが、「世の中の全ての『物事』に、それぞれの『法則(論理)』が備わっていること」「世の中の全ての『物事』が、それぞれの『法則(論理)』の上に成り立っていること」の証拠なのです。


 このことを理解していない人は、「考える(思考する)」ときに、「論理(物事と物事の間にある『法則的なつながり、関係』)」を意識しないので、「物事」と「物事」を「正しく関係付けて」思考を進めません(論理的に思考しません)。

 それどころか、ただ漠然と考えたり、「根拠」がない、単なる「憶測」で思考を進めたりしてしまいます。

 ですから、このことを理解していない人は、それが「原因」で、「論理的に思考すること」ができないのです。


 また、「論理的に思考すること」ができない別の「原因」があります。

 それは、「論理」よりも、「自分が信じていること」「自分が思っていること」を優先させているからです。


「信じる」とは、「『理解していないけど、そうだと思いたいこと』を、そうだと思うこと」です。

「信じている状態」とは、「『理解していないけど、そうだと思いたいこと』を、そうだと思っている状態」のことです。

 つまり、何かを「信じる」とは、言ってしまえば、「ただ単に、そう思うこと」「『論理的根拠』や『論理的整合性』を無視して、そう思うこと」なのです。

 ですから、「考える(思考する)」ときに、「論理」よりも、「自分が信じていること」「自分が思っていること」を優先させて思考していたら、その時点で、「論理的に(物事と物事を正しく関係付けて)」思考していないのです。


「信じること」は、「自信を持つ(自分の能力を信じる)」「明るい未来を信じる」というように、「自分を『いい方向』へ向かわせる」上では有益ですが、実際は、「ただ単に、そう思うこと」「『論理的根拠』や『論理的整合性』を無視して、そう思うこと」なので、「論理」よりも、「自分が信じていること」「自分が思っていること」を優先させていたら、「正しい答え」を導き出すことはできないのです。

 このことから分かるように、「論理」よりも「自分が信じていること」「自分が思っていること」を優先させている場合も、「論理的に思考すること」はできないのです。


 また、別の「原因」に、「じっくり考えないこと」があります。

 どれほど頭がいい人でも、「『複雑な問題』を解決する」ためには、時間をかけて「じっくり考える」必要があります。

 誰でも、必要以上に急いで答えを出そうとしたり、「せかせか」したりして、「じっくり考えること」ができないと、「『複雑な問題』を解決すること」はできなくなるのです。

 つまり、「じっくり考えること」ができないときも、それが「原因」で、「論理的に思考すること」はできなくなるのです。


 さて、このように、人間は、いくつかの「原因」によって「論理的に思考すること」ができなくなるのですが、全ての人は、生きていくために様々なことを「考える」必要がありますし、「考える(思考する)」ときには「『正しい答え』を導き出す」必要があるので、「論理的思考能力」は、全ての人にとって必要不可欠だと言えます。

 もちろん、それは、「大和思想を実践する人」にとっても必要不可欠です。


「大和思想を実践している人」は、「普段自分が関わっている『全体』をまとめる」ために、「常に、『共存共栄の世の中を維持、つくりだす物事』と『共存共栄の世の中を乱す物事』を見分けている」必要がありますが、「論理的思考能力」がなければ、それらを見分けることはできません。

 また、「普段自分が関わっている『全体』をまとめる」ためには、ときには、「こうすれば、こうなる」「こうなることによって、そうなる」、そして「そうなることによって、『全体』がまとまる」というように、「『全体をまとめる』方法」を考える必要がありますが、「論理的思考能力」がなければ、それぞれを「正しく関係付けること」ができないので、「正しい方法」を導き出すことができません。

 また、「問題」や「失敗」の「原因」を解明するときに、「こうしたから、こういう結果になった」と結論を出したとしても、「論理的思考能力」がなければ、「こうした(原因)」と「こういう結果になった(結果)」を「正しく関係付けること」ができないので、「本当の原因」を解明することができません。

 また、「論理的思考能力」がなければ、誰かの主張を支持するにしても、別の人の主張を支持するにしても、主張の内容が理解できないので、ただ「信じて受け入れる」しかありません。
 ですから、「論理的思考能力」がなければ、「正しい主張」を支持したり「間違った主張」を支持したりしてしまいます。

 また、「論理的思考能力」がなければ「嘘を見抜くこと」ができないので、「『共存共栄の世の中』を乱す人」や「言葉が巧みな人」に簡単に騙されてしまいます。

 ですから、「論理的思考能力」は、「大和思想を実践する人」にとっても必要不可欠なのです。


「論理」とは、言うなれば、「物事の『正否』を見分けるための道具」です。

「物の『長さ』を測るための道具」は「定規」ですが、「物事の『正否』を見分けるための道具」は「論理」なのです。

「物の『長さ』を測る」ときに「定規」を当てれば、その「長さ」が分かります。

 同じように、「物事の『正否』を考える」ときに、「論理」に当てはめれば(論理的に思考すれば)、その「正否」が分かるのです。

 1メートルの「長さ」を測るときに、たとえ、10センチの「定規」しか持っていなくても、それをうまく活用すれば、目で見当を付けて測る場合よりも、よほど正確に測ることができます。

 同じように、「論理的に思考する」のが苦手な人でも、一つ一つの「物事」を根気よく「正しく関係付けて」思考を進めれば(論理的に思考すれば)、「ただ信じて、受け入れる」場合よりも、よほど「正しい答え」に近付くことができるのです。


「論理」は「客観的なもの」なので、「論理的に正しい」ということは、「『世の中の全ての人』にとって正しい」ということです。

 ですから、「『共存共栄の世の中』を実現させる方法」を「論理的」に考えて導き出し、それを「論理的」に説明すれば、世の中の全ての人に伝えることができるのです。

 また、「普段自分が関わっている『全体』をまとめる方法」を、「論理的」に考えて導き出し、それを実行すれば、「普段自分が関わっている『全体』をまとめること」ができるのです。


 これらのことから分かるように、「論理的思考能力」は、「大和思想を実践する」上で、必要不可欠な能力なのです。

 ですから、「大和思想を実践している人」は、「論理的思考能力」を持っているのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 論理的に考えない習慣が身に付くと、論理的思考能力は衰えます。

 みなさん、論理的思考能力を高めるために、常に、論理的に考えるようにしましょう。


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バスを待っていたら、雨が降ってきた話

大和思想的な行動
04 /14 2019
「ん~…。今日は傘を持っていこうか、どうしようか…」

 オイラは、天気を判断するときは、2つの天気予報のサイトを見て、判断するようにしている。

 今日は、1つのサイトでは、12時~15時の間に傘マークがついていて、降水確率は50%。

 もう1つのサイトでは、一日中曇りマークで、降水確率は30%。

 そして、外を見ると、すでに少し雨が降った跡がある。

「ん~…。今日は傘を持っていこうか、どうしようか…」


 結局、オイラは、傘を持って出かけることにした。


 バス停に着き、バスを待っていたが、なかなか来ない。

「まっ、こういうときもあるよね~」

 そう思っていると、ポツリ、ポツリと降ってきた。

「もうすぐバスが来るし、傘をさすほどでもないか…」


 だが、雨は、ほんの少し強くなってきた。

 バス停には、オイラを含めて6人いたが、1人、2人と傘をさし、結局オイラも傘をさした。


 ところが、その中に、1人だけ傘を持っていない人が、いるではありませんか。

 それは、20代前半の女性だ。


「今日の天気予報を見て、傘を持ってこないのは判断ミスだな~」

「この場面で、男のオイラが、『大丈夫ですか?』と言って傘をさすのも、さすがに微妙だよな~」

「これは自業自得かな~。もうすぐバス来るし。そんなに降っているわけでもないし。いい経験だな」

 と思っていると、1人のおばちゃんが、スーーっと近づいていき、

「降ってきちゃったね」

 と言って、傘に半分入れてあげた。

「大丈夫ですよっ」

 と、その女性は言ったが、

「渋滞しているのかな~。バスなかなか来ないね~」

 と、おばちゃんは言っている。


 2人は、それほど大きくない傘に、半分づつ入っている状態だ。

 雨は、わずかに降っているだけだが、もちろん体の半分はぬれる。

 結局その2人は、バスが来るまで、その状態でしゃべっていた。


「ん~…。このおばちゃんやるなっ!!」

 まず、「だいじょうぶ?」「傘に入る?」ではなく、「降ってきちゃったね」と言って傘に入れたところがすばらしい。

 その「さりげない感じ」「恩を感じさせない感じ」がすごいね。

 それと、「大丈夫ですよっ」と言われたときも、「い~え、いいのよ」等とは言わず、「渋滞しているのかな~。バスなかなか来ないね~」と言って、「さりげない感じ」「恩を感じさせない感じ」を出している。


「人に『いいこと』をする」というのを突き詰めて考えると、このように「『さりげなく』『恩を感じさせないように』する」というところに行き着くのか…。

「ああ…。なんか、久しぶりにいいものを見た気がするな~」


 オイラも、傘を持っていない人がいたら、「降ってきちゃったね」って言ってみようかな~(笑)。


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自分の感性を大事にする話

個性、感性、長所を伸ばそう
04 /07 2019
 キ~ン コ~ン カ~ン コ~ン………

 放課後の校庭で、子供たちが元気に遊んでいる。

 小学生、特に低学年の子供には、個性的な子供が多い。


 近頃の学校では、「個性の伸長」ということが言われているようだ。

 世の中には、「個性的な人」が必要ということだ。つまり、「多様な人間」が必要ということだ。


 人によっては、「私は普通でいい」という「控えめな人」がいるが、オイラは「普通は嫌」だ。

 他の人が「普通」であることは、別にいいのだが、自分は嫌なのだ。

 別に「奇抜さ」を求めているわけではないが、いちいち「普通」を意識し、それに合わせるのは、息苦しい。もっと、自然体でいたいのだ。


 オイラの考えはともかく、今の世の中には、「個性的な人」が必要なのだ。

 だから、学校で「個性の伸長」と言っているのだ。


 この「個性」を伸ばすためには、「感性」を意識する必要がある。

「観念的」にならず、自分の「感性」に従って様々な選択をし、行動していれば、その人は「個性的な人」になる。

 だが、ほとんどの人は、成長するに従って、周りの目を気にするようになり、「観念的」になり「感性」に従わなくなる。

 そして、「個性」のない「普通の人」になる。


 男女によって違いがあるし、個人差もあるが、男の子は、大体、小学校3年生ころまでは、「感性」に従って行動しているように思う。

 そして、4年生ころから、周りの目を気にするようになるように思う。

 オイラはそうだった。


 小学校3年のとき、図工の授業で、紙粘土で「お面」をつくった。

「お面」でも「かぶと(かぶり物)」でもよかったのだが、オイラは、「クモのかぶと」をつくった。

 何で「クモ」なのか?

 それは分からない。

 オイラの「感性」が、そうさせたのだ。

 この作品を見た、親の知り合い(別の学校で図工の先生をやっている)は、「これはいいね~」と気に入ってくれた。

 しょせん子供がつくったものだから、技術的には、どうということはないのだが、その「奇抜さ」や「大胆さ」に、面白みを感じていたようだ。

 今考えると、オイラもそう思う。


 だが、小学校4年くらいから、オイラは、周りの目を気にするようになった。

「自分の感性に従う」よりも、「普通に合わせること」を意識するようになったのだ。


 小学校5年のとき、図工の授業で、木で「ハンガー(のようなもの)」をつくった。

 もちろん、どんな絵を描いてもいいし、どんなデザインでもいいのだが、オイラは、無難なものをつくった。

 それは、今のオイラからすると、面白いものではない。

 オイラは、周りの目を気にするようになって、「感性」に従うのではなく、「観念的」になり、「普通」に合わせるようになったのだ。


 中学校一年のとき、友達からCDを借りた。

 それは、CMソングのコンピレーションアルバムだったのだが、その中に、「すごくいい」と思う曲があった。

 デイブ・ブルーベックの「テイクファイブ(ジャズ)」だ。

 そのCDの、その他の曲はポップスだ。

 ポップスを聴くつもりで借りたCDに「テイクファイブ(ジャズ)」が入っていたのだ。

 そして、その曲を「すごくいい」と思ったのだ。


 だが、そのころのオイラは、周りの目を気にするようになっていたから、

「こんな曲を聴くのはダサイのではないか?」

「この曲を聴いていることを、みんなが知ったらどうしよう?」

などと考えた。

 そして、結局、そのCDの何曲かは、カセットテープにダビング(コピー)したが、「テイクファイブ」はダビングしなかった。


 中学校3年くらいから、再び、オイラは周りの目を気にしなくなっていった。

 周りの目を気にしなくなるにつれて、再び「感性」に従うようになっていった。

 そして、「感性」に従うようになるにつれて、頭の片隅に「テイクファイブ」が「ちらつく」ようになった。

「あの曲、いいと思ったんだけどなぁ~」「なんてタイトルだっけな~」「ダビング(コピー)しておけばよかったな~」「もったいないことしたな~」

 たまに、そう思うときがあったのだ。


 23歳のとき、旅行でオーストラリアへ行った。

 辞書を買うために、日本語の本を販売している本屋へ行った。

「辞書はどこ~。辞書はどこ~」と探していると、

「んっ!!」

「おっ!?」

「おおおおおおーっ!?」

「あの曲じゃーーん!?(驚き&超感動!!)」

 そう。たまたま、店のスピーカーから「テイクファイブ」が流れていたのだ。


「おおおおお~。どうしよう!?」

 一瞬考えたオイラは、「とりあえず店員(日本人)に聞こう」と思った。

「店員が知っているわけがない」と思ったが、このタイミングを逃したら、次はいつ、この曲に出会えるか分からない。

 そう思って、とりあえず聞いてみた。


 すると、以外にも、その店員は知っていた。

 店でかけていたのは、ラジオではなくCDだったのだ。

 店員は、一端局を止めて曲名を確認し、「デイブ・ブルーベックのテイクファイブです」と教えてくれたのだ。

「うおおおおおおおお~!?」


 オイラは、とりあえず店を出た。

 そして、CDショップを探した。

 そして、「テイクファイブ」を探し、それを買った。

 自分で封印した「感性」を、取り戻した瞬間だった。


 これに似た経験がある人は、いるのではないか?

「観念的」になり、自分の「感性」を封印してしまった経験がある人、また、自分の「感性」を取り戻した経験がある人は、いるのではないか?


 だが、多くの人は、周りの目を気にし、「観念的」になり、自分の「感性」を押さえ、「普通」に合わせたままのように思える。

 オイラに言わせれば、それは「非常に、もったいないこと」だ。

 そんな人生、つまらないじゃないか。

 自分の「感性」を完全に押さえ込んだら、それは、「自分であって、自分ではない」のだ。

 特に、今では、学校で「個性の伸長」と言っているくらいなのだ。


 みんな!!

 自分の「感性」に従ってしまおう!!

 自分の「個性」を伸ばしてしまおう!!

 本当の自分になってしまおう!!

 自分を創るのは、自分なのだ!!


※デイブ・ブルーベックのテイクファイブとは、この曲だ!!


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大和思想を実践しよう 2019年4月1日

大和思想を実践しよう
04 /01 2019
 皆さん、今日は4月1日です。

 毎月1日は、「大和思想を実践する日」です。

 今日は意識して、大和思想を実践しましょう。

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 今日は、意識して、自分の「運命」を受け入れましょう。


 誰でも、ときには、精神的に苦しむことがあります。

 この「精神的苦しみ」ですが、全ての「精神的苦しみ」は、「『理想(欲が満たされた理想の状況)』と『現実(欲が満たされていない現状)』の間に『差』があること」によって生まれます。

 ですから、「自分の『運命』を受け入れること」ができれば、その「差」が解消されるので、「精神的苦しみ」は解消されます。


 中には、受け入れられないような経験をしたことがある人もいると思いますが、「受け入れられないようなこと」だからこそ、受け入れてしまった方がいいのです。

「受け入れられない」ということは、それだけ、「精神的に苦しい」ということですから、それこそ受け入れてしまい、精神的に楽になった方がいいのです。


 それでは、どうすれば、「受け入れられない」ほどのことを、受け入れることができるのでしょうか?


 それは、アファメーションをすれば簡単です。

 アファメーションで、自分の無意識に、「自分は、自分の『運命』を受け入れている」と刷り込むのです。

 それを繰り返すことによって、意識することなく、自然に、「自分の『運命』を受け入れている状態」になっていくのです。

 下で紹介している大和思想のアファメーションの、「自分は、自分の『運命』を受け入れている」というパートを、特に意識してやってみましょう。


「自分の『運命』を受け入れること」ができれば、あなたの「精神的苦しみ」は、少なからず解消されます。

 そして、「精神的苦しみ」が解消されれば、自分が関わっている全体を、より上手くまとめることができるようになるのです。


※「自分の『運命』を受け入れること」についての詳しい説明は こちら

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 大和思想とは、「『世の中の全ての人が、自ら率先して、普段自分が関わっている全体をまとめること』によって『共存共栄の世の中』を実現させ、世の中の全ての人と共に『幸福』になる」という思想です。

 そこで、今日は、「家族」においては、常に、自ら率先して、「家族を『共存共栄の世の中を維持しつつ、その家族の目的を実現している状態』にするための働きかけ」をしましょう。

「友人の集まり」においては、常に、自ら率先して、「その友人の集まりを『共存共栄の世の中を維持しつつ、その友人の集まりの目的を実現している状態』にするための働きかけ」をしましょう。

「会社」においては、常に、自ら率先して、「会社を『共存共栄の世の中を維持しつつ、その会社の目的を実現している状態』にするための働きかけ」をしましょう。

「国家」においては、常に、自ら率先して、「国家を『共存共栄の世の中を維持しつつ、その国家の目的を実現している状態』にするための働きかけ」をしましょう。

 そして、「世界」においては、常に、自ら率先して、「世界を『共存共栄の世の中』にするための働きかけ」をしましょう。


 また、今日は大和思想のアファメーションをしましょう。




※大和思想のアファメーションについての説明は こちら


 みんなで大和思想を実践しましょう。

 そして、共存共栄の世の中を実現させましょう。


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伊藤 豪

こんにちは、大和思想の著者、共存共栄研究センター代表の伊藤豪です。
当ブログでは、大和思想について、ブログ形式で説明したいと思います。

大和思想を読んだことがある人は、より実践的なことが理解できるようになります。
大和思想を読んだことがない人は、大和思想の全体像が理解できるようになります。

大和思想を実践して、みんなで共存共栄の世の中を実現させましょう!