論理的思考能力を持とう
幸福になるための知恵
※ここで言う「論理的思考能力」とは、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考を進める能力」という意味です。
論理的思考能力は、計画立案や問題解決をするために必要な能力です。
「嘘」と「本当」を見分けるためにも必要です。
フェイクニュースや間違った情報に振り回されず、真実を見抜くためにも必要です。
つまり、論理的思考能力は、生きていく上で、必要不可欠な能力だと言えます。
ですが、世の中には、論理的に考えない人がたくさんいます。
1+1(いち たす いち)は、何でしょう?
そうです。2です。
では、もし、世界の全ての人が、「1+1=3だ!!」と言ったら、答えは3でしょうか? 2でしょうか?
アメリカの大統領も、日本の総理大臣も、中国の国家主席も、ロシアの大統領も、世界の全てのマスコミも、世界の全ての学者も、みんながみんな「1+1=3だ!!」と言ったら、その答えは3でしょうか?
どう思いますか?
誰が何と言おうと、1+1の答えは2です。
袋の中にリンゴが1つあります。
その袋に、もう1つリンゴを加えます。
袋の中に、リンゴは全部で何個あるでしょう?
そうです。答えは2個です。これが、1+1=2ということなのです。
ですから、誰が何と言おうと1+1=2なのです。
論理的に言って、1+1=2なのです。
みんなが言っているかどうかは関係ありません。
論理的に正しいかどうか(物事と物事が正しく関係付けられているかどうか)が問題なのです。
この論理的思考能力を説明するために、大和思想の五章から、「『論理的思考能力』を持っている」を抜粋したいと思います。
~~~~~~~~~ 大和思想 五章から抜粋 ~~~~~~~~~~
「論理的思考能力」を持っている
※ここで言う「論理」とは、「物事」と「物事」の間にある「法則的なつながり、関係」という意味です。
また、「論理的に思考する」とは、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考を進める」という意味です。
また、「論理的思考能力」とは、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考を進める能力」という意味です。
また、ここで言う「思考する(考える)」とは、「『目的』を持って考えること」です。
「『目的を実現させる方法』を考える」「『問題を解決する方法』を考える」「『失敗の原因』
を考える」「『より良く行なう方法』を考える」というように、「目的」を持って行なうのが「思考する(考える)」です。
一方、「目的」を持たずに行なうのは、「思う(思っている状態)」です。
それは、「見たこと」「聞いたこと」「経験したこと」等に反応して「思っている」のであって、「思考している(考えている)」わけではありません。
「大和思想を実践している人」は、「論理的思考能力」を持っています。
「大和思想を実践している人」は、常に、自ら率先して、普段自分が関わっている「全体」をまとめていますが、実際に「全体をまとめる」ためには、様々なことを「考える(思考する)」必要があります。
この「考える(思考する)」とは、「『正しい答えを導き出す』ために行なう行為」です。
「『目的を実現させる方法』を考える」「『問題を解決する方法』を考える」「『失敗の原因』
を考える」「『より良く行なう方法』を考える」、その他、どのようなことを「考える」場合でも、「『正しい答え』を導き出すため」に「考える」のであって、「『間違った答え』を導き出すため」に「考える」わけではありません。
ですから、「考える(思考する)」ときには、必ず、「正しい答えを導き出すこと」ができる方法で思考を進める必要があります。つまり、「論理的に思考する」必要があります。
「論理的に思考する」とは、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考を進める」ということです。
つまり、「こうすれば、こうなる」「こうなることによって、そうなる」、そして「そうなることによって、目的が実現される」と考えるときに、「それぞれを『正しく関係付けて』思考を進める」ということです。
「こうすれば、こうなる」「こうなることによって、そうなる」、そして「そうなることによって、目的が実現される」と考えたとしても、それぞれが「正しく」関係付けられていなければ、そのとおりに作業を進めても「目的」は実現しません。
これは、「1+2+3+4+5」を計算するときに、「1+2」「その答え+3」「その答え+4」「その答え+5」の、それぞれの計算が正しく行なわれなければ、最後の答えが正しくならないのと同じで、「思考する」ときも、それぞれを「正しく関係付けて」思考しなければ、最終的な答えは正しくならないのです。
ですから、「考える(思考する)」ときには、必ず、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考する」必要があるのです。つまり、「論理的に思考する」必要があるのです。
さて、どのようなことを「考える(思考する)」場合でも、必ず「論理的に思考する」必要があるので、「論理的思考能力」は、全ての人にとって必要不可欠なのですが、世の中には、「論理的に思考する」のが苦手な人がいます。
「『論理的に思考すること』ができない」ということは、「『物事と物事を正しく関係付けて思考すること』ができない」ということですが、それができない「原因」は、いくつかあります。
「論理的に思考すること」ができない「原因」の一つは、そういう人は、「世の中の全ての『物事』に、それぞれの『法則(論理)』が備わっていること」「世の中の全ての『物事』が、それぞれの『法則(論理)』の上に成り立っていること」を理解していないからです。
世の中の全ての「物事」には、それぞれの「法則(論理)」が備わっています。
別の言い方をすると、世の中の全ての「物事」は、それぞれの「法則(論理)」の上に成り立っています。
ですから、何らかの「目的」を実現させるためには、それに備わっている「法則(論理)」に則って行なう必要がありますし、常に、その「法則(論理)」に則って行なえば、常に、同じ結果を得ることができます。
例えば、「ボールを遠くに投げる」ためには、単に「力一杯投げる」のではなく、その「動作」に備わっている「法則(論理)」を理解し、それに則って投げる必要があります。
「『ボールを遠くに投げる』メカニズム(法則、論理)」を理解し、それに則った「ボールの握り方」「脚の動かし方」「重心の移動の仕方」「腕の振り方」等をするからこそ、「ボールを遠くに投げること」ができるのです。
また、常に、その「メカニズム(法則、論理)」に則ってボールを投げれば、常に、「遠くに投げること」ができるのです。
また、「『植物』を理想の状態に育てる」ためには、「その『植物』の成長のメカニズム(法則、論理)」を理解し、それに則って育てる必要があります。
「その『植物』の成長のメカニズム(法則、論理)」を理解し、それに則った「種の播き方」「水のやり方」「肥料のやり方」「手入れの仕方」等をするからこそ、「その『植物』を理想の状態に育てること」ができるのです。
また、常に、その「メカニズム(法則、論理)」に則って育てれば、常に、「理想の状態に育てること」ができるのです。
また、「上手な文章を書く」ため、「上手な説明をする」ためには、「言語の法則(論理)」を理解し、それに則って行なう必要があります。
「言語の法則(論理)」を理解し、それに則り、「正しい単語」「正しい文法」を使って行なうからこそ、「上手な文章を書くこと」「上手な説明をすること」ができるのです。
また、常に、「言語の法則」に則って行なえば、常に、「上手な文章を書くこと」「上手な説明をすること」ができるのです。
このように、どのような「目的」でも、それを実現させるためには、それに備わっている「法則(論理)」に則って行なう必要がありますし、常に、その「法則(論理)」に則って行なえば、常に、同じ結果を得ることができるのですが、これは、「世の中の全ての『物事』に、それぞれの『法則(論理)』が備わっているから」「世の中の全ての『物事』が、それぞれの『法則(論理)』の上に成り立っているから」起こることです。
もし、それぞれの「物事」に、それぞれの「法則(論理)」が備わっていなかったら、同じ「やり方」で行なっても、毎回違う結果になりますし、「やり方」や「コツ」を人に教えることも、人から学ぶこともできません。
というより、「物事」に、それぞれの「法則(論理)」が備わっていなかったら、「やり方」や「コツ」自体がないはずなのです。
「『目的』を実現させるためには、それに備わっている『法則(論理)』に則って行なう必要がある」「常に、その『法則(論理)』に則って行なえば、常に、同じ結果を得ることができる」ということが、「世の中の全ての『物事』に、それぞれの『法則(論理)』が備わっていること」「世の中の全ての『物事』が、それぞれの『法則(論理)』の上に成り立っていること」の証拠なのです。
このことを理解していない人は、「考える(思考する)」ときに、「論理(物事と物事の間にある『法則的なつながり、関係』)」を意識しないので、「物事」と「物事」を「正しく関係付けて」思考を進めません(論理的に思考しません)。
それどころか、ただ漠然と考えたり、「根拠」がない、単なる「憶測」で思考を進めたりしてしまいます。
ですから、このことを理解していない人は、それが「原因」で、「論理的に思考すること」ができないのです。
また、「論理的に思考すること」ができない別の「原因」があります。
それは、「論理」よりも、「自分が信じていること」「自分が思っていること」を優先させているからです。
「信じる」とは、「『理解していないけど、そうだと思いたいこと』を、そうだと思うこと」です。
「信じている状態」とは、「『理解していないけど、そうだと思いたいこと』を、そうだと思っている状態」のことです。
つまり、何かを「信じる」とは、言ってしまえば、「ただ単に、そう思うこと」「『論理的根拠』や『論理的整合性』を無視して、そう思うこと」なのです。
ですから、「考える(思考する)」ときに、「論理」よりも、「自分が信じていること」「自分が思っていること」を優先させて思考していたら、その時点で、「論理的に(物事と物事を正しく関係付けて)」思考していないのです。
「信じること」は、「自信を持つ(自分の能力を信じる)」「明るい未来を信じる」というように、「自分を『いい方向』へ向かわせる」上では有益ですが、実際は、「ただ単に、そう思うこと」「『論理的根拠』や『論理的整合性』を無視して、そう思うこと」なので、「論理」よりも、「自分が信じていること」「自分が思っていること」を優先させていたら、「正しい答え」を導き出すことはできないのです。
このことから分かるように、「論理」よりも「自分が信じていること」「自分が思っていること」を優先させている場合も、「論理的に思考すること」はできないのです。
また、別の「原因」に、「じっくり考えないこと」があります。
どれほど頭がいい人でも、「『複雑な問題』を解決する」ためには、時間をかけて「じっくり考える」必要があります。
誰でも、必要以上に急いで答えを出そうとしたり、「せかせか」したりして、「じっくり考えること」ができないと、「『複雑な問題』を解決すること」はできなくなるのです。
つまり、「じっくり考えること」ができないときも、それが「原因」で、「論理的に思考すること」はできなくなるのです。
さて、このように、人間は、いくつかの「原因」によって「論理的に思考すること」ができなくなるのですが、全ての人は、生きていくために様々なことを「考える」必要がありますし、「考える(思考する)」ときには「『正しい答え』を導き出す」必要があるので、「論理的思考能力」は、全ての人にとって必要不可欠だと言えます。
もちろん、それは、「大和思想を実践する人」にとっても必要不可欠です。
「大和思想を実践している人」は、「普段自分が関わっている『全体』をまとめる」ために、「常に、『共存共栄の世の中を維持、つくりだす物事』と『共存共栄の世の中を乱す物事』を見分けている」必要がありますが、「論理的思考能力」がなければ、それらを見分けることはできません。
また、「普段自分が関わっている『全体』をまとめる」ためには、ときには、「こうすれば、こうなる」「こうなることによって、そうなる」、そして「そうなることによって、『全体』がまとまる」というように、「『全体をまとめる』方法」を考える必要がありますが、「論理的思考能力」がなければ、それぞれを「正しく関係付けること」ができないので、「正しい方法」を導き出すことができません。
また、「問題」や「失敗」の「原因」を解明するときに、「こうしたから、こういう結果になった」と結論を出したとしても、「論理的思考能力」がなければ、「こうした(原因)」と「こういう結果になった(結果)」を「正しく関係付けること」ができないので、「本当の原因」を解明することができません。
また、「論理的思考能力」がなければ、誰かの主張を支持するにしても、別の人の主張を支持するにしても、主張の内容が理解できないので、ただ「信じて受け入れる」しかありません。
ですから、「論理的思考能力」がなければ、「正しい主張」を支持したり「間違った主張」を支持したりしてしまいます。
また、「論理的思考能力」がなければ「嘘を見抜くこと」ができないので、「『共存共栄の世の中』を乱す人」や「言葉が巧みな人」に簡単に騙されてしまいます。
ですから、「論理的思考能力」は、「大和思想を実践する人」にとっても必要不可欠なのです。
「論理」とは、言うなれば、「物事の『正否』を見分けるための道具」です。
「物の『長さ』を測るための道具」は「定規」ですが、「物事の『正否』を見分けるための道具」は「論理」なのです。
「物の『長さ』を測る」ときに「定規」を当てれば、その「長さ」が分かります。
同じように、「物事の『正否』を考える」ときに、「論理」に当てはめれば(論理的に思考すれば)、その「正否」が分かるのです。
1メートルの「長さ」を測るときに、たとえ、10センチの「定規」しか持っていなくても、それをうまく活用すれば、目で見当を付けて測る場合よりも、よほど正確に測ることができます。
同じように、「論理的に思考する」のが苦手な人でも、一つ一つの「物事」を根気よく「正しく関係付けて」思考を進めれば(論理的に思考すれば)、「ただ信じて、受け入れる」場合よりも、よほど「正しい答え」に近付くことができるのです。
「論理」は「客観的なもの」なので、「論理的に正しい」ということは、「『世の中の全ての人』にとって正しい」ということです。
ですから、「『共存共栄の世の中』を実現させる方法」を「論理的」に考えて導き出し、それを「論理的」に説明すれば、世の中の全ての人に伝えることができるのです。
また、「普段自分が関わっている『全体』をまとめる方法」を、「論理的」に考えて導き出し、それを実行すれば、「普段自分が関わっている『全体』をまとめること」ができるのです。
これらのことから分かるように、「論理的思考能力」は、「大和思想を実践する」上で、必要不可欠な能力なのです。
ですから、「大和思想を実践している人」は、「論理的思考能力」を持っているのです。
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論理的に考えない習慣が身に付くと、論理的思考能力は衰えます。
みなさん、論理的思考能力を高めるために、常に、論理的に考えるようにしましょう。
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論理的思考能力は、計画立案や問題解決をするために必要な能力です。
「嘘」と「本当」を見分けるためにも必要です。
フェイクニュースや間違った情報に振り回されず、真実を見抜くためにも必要です。
つまり、論理的思考能力は、生きていく上で、必要不可欠な能力だと言えます。
ですが、世の中には、論理的に考えない人がたくさんいます。
1+1(いち たす いち)は、何でしょう?
そうです。2です。
では、もし、世界の全ての人が、「1+1=3だ!!」と言ったら、答えは3でしょうか? 2でしょうか?
アメリカの大統領も、日本の総理大臣も、中国の国家主席も、ロシアの大統領も、世界の全てのマスコミも、世界の全ての学者も、みんながみんな「1+1=3だ!!」と言ったら、その答えは3でしょうか?
どう思いますか?
誰が何と言おうと、1+1の答えは2です。
袋の中にリンゴが1つあります。
その袋に、もう1つリンゴを加えます。
袋の中に、リンゴは全部で何個あるでしょう?
そうです。答えは2個です。これが、1+1=2ということなのです。
ですから、誰が何と言おうと1+1=2なのです。
論理的に言って、1+1=2なのです。
みんなが言っているかどうかは関係ありません。
論理的に正しいかどうか(物事と物事が正しく関係付けられているかどうか)が問題なのです。
この論理的思考能力を説明するために、大和思想の五章から、「『論理的思考能力』を持っている」を抜粋したいと思います。
~~~~~~~~~ 大和思想 五章から抜粋 ~~~~~~~~~~
「論理的思考能力」を持っている
※ここで言う「論理」とは、「物事」と「物事」の間にある「法則的なつながり、関係」という意味です。
また、「論理的に思考する」とは、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考を進める」という意味です。
また、「論理的思考能力」とは、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考を進める能力」という意味です。
また、ここで言う「思考する(考える)」とは、「『目的』を持って考えること」です。
「『目的を実現させる方法』を考える」「『問題を解決する方法』を考える」「『失敗の原因』
を考える」「『より良く行なう方法』を考える」というように、「目的」を持って行なうのが「思考する(考える)」です。
一方、「目的」を持たずに行なうのは、「思う(思っている状態)」です。
それは、「見たこと」「聞いたこと」「経験したこと」等に反応して「思っている」のであって、「思考している(考えている)」わけではありません。
「大和思想を実践している人」は、「論理的思考能力」を持っています。
「大和思想を実践している人」は、常に、自ら率先して、普段自分が関わっている「全体」をまとめていますが、実際に「全体をまとめる」ためには、様々なことを「考える(思考する)」必要があります。
この「考える(思考する)」とは、「『正しい答えを導き出す』ために行なう行為」です。
「『目的を実現させる方法』を考える」「『問題を解決する方法』を考える」「『失敗の原因』
を考える」「『より良く行なう方法』を考える」、その他、どのようなことを「考える」場合でも、「『正しい答え』を導き出すため」に「考える」のであって、「『間違った答え』を導き出すため」に「考える」わけではありません。
ですから、「考える(思考する)」ときには、必ず、「正しい答えを導き出すこと」ができる方法で思考を進める必要があります。つまり、「論理的に思考する」必要があります。
「論理的に思考する」とは、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考を進める」ということです。
つまり、「こうすれば、こうなる」「こうなることによって、そうなる」、そして「そうなることによって、目的が実現される」と考えるときに、「それぞれを『正しく関係付けて』思考を進める」ということです。
「こうすれば、こうなる」「こうなることによって、そうなる」、そして「そうなることによって、目的が実現される」と考えたとしても、それぞれが「正しく」関係付けられていなければ、そのとおりに作業を進めても「目的」は実現しません。
これは、「1+2+3+4+5」を計算するときに、「1+2」「その答え+3」「その答え+4」「その答え+5」の、それぞれの計算が正しく行なわれなければ、最後の答えが正しくならないのと同じで、「思考する」ときも、それぞれを「正しく関係付けて」思考しなければ、最終的な答えは正しくならないのです。
ですから、「考える(思考する)」ときには、必ず、「物事と物事を『正しく関係付けて』思考する」必要があるのです。つまり、「論理的に思考する」必要があるのです。
さて、どのようなことを「考える(思考する)」場合でも、必ず「論理的に思考する」必要があるので、「論理的思考能力」は、全ての人にとって必要不可欠なのですが、世の中には、「論理的に思考する」のが苦手な人がいます。
「『論理的に思考すること』ができない」ということは、「『物事と物事を正しく関係付けて思考すること』ができない」ということですが、それができない「原因」は、いくつかあります。
「論理的に思考すること」ができない「原因」の一つは、そういう人は、「世の中の全ての『物事』に、それぞれの『法則(論理)』が備わっていること」「世の中の全ての『物事』が、それぞれの『法則(論理)』の上に成り立っていること」を理解していないからです。
世の中の全ての「物事」には、それぞれの「法則(論理)」が備わっています。
別の言い方をすると、世の中の全ての「物事」は、それぞれの「法則(論理)」の上に成り立っています。
ですから、何らかの「目的」を実現させるためには、それに備わっている「法則(論理)」に則って行なう必要がありますし、常に、その「法則(論理)」に則って行なえば、常に、同じ結果を得ることができます。
例えば、「ボールを遠くに投げる」ためには、単に「力一杯投げる」のではなく、その「動作」に備わっている「法則(論理)」を理解し、それに則って投げる必要があります。
「『ボールを遠くに投げる』メカニズム(法則、論理)」を理解し、それに則った「ボールの握り方」「脚の動かし方」「重心の移動の仕方」「腕の振り方」等をするからこそ、「ボールを遠くに投げること」ができるのです。
また、常に、その「メカニズム(法則、論理)」に則ってボールを投げれば、常に、「遠くに投げること」ができるのです。
また、「『植物』を理想の状態に育てる」ためには、「その『植物』の成長のメカニズム(法則、論理)」を理解し、それに則って育てる必要があります。
「その『植物』の成長のメカニズム(法則、論理)」を理解し、それに則った「種の播き方」「水のやり方」「肥料のやり方」「手入れの仕方」等をするからこそ、「その『植物』を理想の状態に育てること」ができるのです。
また、常に、その「メカニズム(法則、論理)」に則って育てれば、常に、「理想の状態に育てること」ができるのです。
また、「上手な文章を書く」ため、「上手な説明をする」ためには、「言語の法則(論理)」を理解し、それに則って行なう必要があります。
「言語の法則(論理)」を理解し、それに則り、「正しい単語」「正しい文法」を使って行なうからこそ、「上手な文章を書くこと」「上手な説明をすること」ができるのです。
また、常に、「言語の法則」に則って行なえば、常に、「上手な文章を書くこと」「上手な説明をすること」ができるのです。
このように、どのような「目的」でも、それを実現させるためには、それに備わっている「法則(論理)」に則って行なう必要がありますし、常に、その「法則(論理)」に則って行なえば、常に、同じ結果を得ることができるのですが、これは、「世の中の全ての『物事』に、それぞれの『法則(論理)』が備わっているから」「世の中の全ての『物事』が、それぞれの『法則(論理)』の上に成り立っているから」起こることです。
もし、それぞれの「物事」に、それぞれの「法則(論理)」が備わっていなかったら、同じ「やり方」で行なっても、毎回違う結果になりますし、「やり方」や「コツ」を人に教えることも、人から学ぶこともできません。
というより、「物事」に、それぞれの「法則(論理)」が備わっていなかったら、「やり方」や「コツ」自体がないはずなのです。
「『目的』を実現させるためには、それに備わっている『法則(論理)』に則って行なう必要がある」「常に、その『法則(論理)』に則って行なえば、常に、同じ結果を得ることができる」ということが、「世の中の全ての『物事』に、それぞれの『法則(論理)』が備わっていること」「世の中の全ての『物事』が、それぞれの『法則(論理)』の上に成り立っていること」の証拠なのです。
このことを理解していない人は、「考える(思考する)」ときに、「論理(物事と物事の間にある『法則的なつながり、関係』)」を意識しないので、「物事」と「物事」を「正しく関係付けて」思考を進めません(論理的に思考しません)。
それどころか、ただ漠然と考えたり、「根拠」がない、単なる「憶測」で思考を進めたりしてしまいます。
ですから、このことを理解していない人は、それが「原因」で、「論理的に思考すること」ができないのです。
また、「論理的に思考すること」ができない別の「原因」があります。
それは、「論理」よりも、「自分が信じていること」「自分が思っていること」を優先させているからです。
「信じる」とは、「『理解していないけど、そうだと思いたいこと』を、そうだと思うこと」です。
「信じている状態」とは、「『理解していないけど、そうだと思いたいこと』を、そうだと思っている状態」のことです。
つまり、何かを「信じる」とは、言ってしまえば、「ただ単に、そう思うこと」「『論理的根拠』や『論理的整合性』を無視して、そう思うこと」なのです。
ですから、「考える(思考する)」ときに、「論理」よりも、「自分が信じていること」「自分が思っていること」を優先させて思考していたら、その時点で、「論理的に(物事と物事を正しく関係付けて)」思考していないのです。
「信じること」は、「自信を持つ(自分の能力を信じる)」「明るい未来を信じる」というように、「自分を『いい方向』へ向かわせる」上では有益ですが、実際は、「ただ単に、そう思うこと」「『論理的根拠』や『論理的整合性』を無視して、そう思うこと」なので、「論理」よりも、「自分が信じていること」「自分が思っていること」を優先させていたら、「正しい答え」を導き出すことはできないのです。
このことから分かるように、「論理」よりも「自分が信じていること」「自分が思っていること」を優先させている場合も、「論理的に思考すること」はできないのです。
また、別の「原因」に、「じっくり考えないこと」があります。
どれほど頭がいい人でも、「『複雑な問題』を解決する」ためには、時間をかけて「じっくり考える」必要があります。
誰でも、必要以上に急いで答えを出そうとしたり、「せかせか」したりして、「じっくり考えること」ができないと、「『複雑な問題』を解決すること」はできなくなるのです。
つまり、「じっくり考えること」ができないときも、それが「原因」で、「論理的に思考すること」はできなくなるのです。
さて、このように、人間は、いくつかの「原因」によって「論理的に思考すること」ができなくなるのですが、全ての人は、生きていくために様々なことを「考える」必要がありますし、「考える(思考する)」ときには「『正しい答え』を導き出す」必要があるので、「論理的思考能力」は、全ての人にとって必要不可欠だと言えます。
もちろん、それは、「大和思想を実践する人」にとっても必要不可欠です。
「大和思想を実践している人」は、「普段自分が関わっている『全体』をまとめる」ために、「常に、『共存共栄の世の中を維持、つくりだす物事』と『共存共栄の世の中を乱す物事』を見分けている」必要がありますが、「論理的思考能力」がなければ、それらを見分けることはできません。
また、「普段自分が関わっている『全体』をまとめる」ためには、ときには、「こうすれば、こうなる」「こうなることによって、そうなる」、そして「そうなることによって、『全体』がまとまる」というように、「『全体をまとめる』方法」を考える必要がありますが、「論理的思考能力」がなければ、それぞれを「正しく関係付けること」ができないので、「正しい方法」を導き出すことができません。
また、「問題」や「失敗」の「原因」を解明するときに、「こうしたから、こういう結果になった」と結論を出したとしても、「論理的思考能力」がなければ、「こうした(原因)」と「こういう結果になった(結果)」を「正しく関係付けること」ができないので、「本当の原因」を解明することができません。
また、「論理的思考能力」がなければ、誰かの主張を支持するにしても、別の人の主張を支持するにしても、主張の内容が理解できないので、ただ「信じて受け入れる」しかありません。
ですから、「論理的思考能力」がなければ、「正しい主張」を支持したり「間違った主張」を支持したりしてしまいます。
また、「論理的思考能力」がなければ「嘘を見抜くこと」ができないので、「『共存共栄の世の中』を乱す人」や「言葉が巧みな人」に簡単に騙されてしまいます。
ですから、「論理的思考能力」は、「大和思想を実践する人」にとっても必要不可欠なのです。
「論理」とは、言うなれば、「物事の『正否』を見分けるための道具」です。
「物の『長さ』を測るための道具」は「定規」ですが、「物事の『正否』を見分けるための道具」は「論理」なのです。
「物の『長さ』を測る」ときに「定規」を当てれば、その「長さ」が分かります。
同じように、「物事の『正否』を考える」ときに、「論理」に当てはめれば(論理的に思考すれば)、その「正否」が分かるのです。
1メートルの「長さ」を測るときに、たとえ、10センチの「定規」しか持っていなくても、それをうまく活用すれば、目で見当を付けて測る場合よりも、よほど正確に測ることができます。
同じように、「論理的に思考する」のが苦手な人でも、一つ一つの「物事」を根気よく「正しく関係付けて」思考を進めれば(論理的に思考すれば)、「ただ信じて、受け入れる」場合よりも、よほど「正しい答え」に近付くことができるのです。
「論理」は「客観的なもの」なので、「論理的に正しい」ということは、「『世の中の全ての人』にとって正しい」ということです。
ですから、「『共存共栄の世の中』を実現させる方法」を「論理的」に考えて導き出し、それを「論理的」に説明すれば、世の中の全ての人に伝えることができるのです。
また、「普段自分が関わっている『全体』をまとめる方法」を、「論理的」に考えて導き出し、それを実行すれば、「普段自分が関わっている『全体』をまとめること」ができるのです。
これらのことから分かるように、「論理的思考能力」は、「大和思想を実践する」上で、必要不可欠な能力なのです。
ですから、「大和思想を実践している人」は、「論理的思考能力」を持っているのです。
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論理的に考えない習慣が身に付くと、論理的思考能力は衰えます。
みなさん、論理的思考能力を高めるために、常に、論理的に考えるようにしましょう。

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